ものづくりヤマガタ情報サイト:山形のものづくりの系譜:明治時代~昭和初期の産業

山形のものづくりの系譜

明治時代~昭和初期の産業

県勧業課製糸工場の外観写真 写真提供/山形県立図書館県勧業課製糸工場の外観写真 写真提供/山形県立図書館

 明治時代に入ると電力や新聞、郵便所などの経済基盤が整備され、県内でも栗子トンネルや奥羽線の開通により中央との交流が深まり、西洋文明の波が次第に押し寄せるようになりました。これに伴い、山形県の工業は家内生産形態から近代的なものへと発展を遂げていきます。

齋外式力織機 写真提供/鶴岡市郷土資料館齋外式力織機 写真提供/鶴岡市郷土資料館



 近代化のさきがけとして産業革命の中心を担うことになったのが、生糸や織物などの繊維工業でした。政府がヨーロッパからの製糸技術の導入を図る中、県内でも1877(明治10)年に三島県令が県勧業課製糸工場を設立、技術の伝習に努めました。絹織物を中心とする県内の織物生産は家内工業が主流でしたが、明治40年代に入ると力織機や電動機を備えた工場が相次いで設立され、本格的な機械制工場の時代へと転化していきます。また、1913(大正2)年には米沢高等工業学校(現山形大学工学部)教授、秦逸三が日本で初めて人口絹糸(レーヨン)の製造に成功。米沢市は日本における人造繊維発祥の地となります。

帝国人造絹糸・米沢工場 山形大学工学部 目で見る80年史より帝国人造絹糸・米沢工場 
山形大学工学部 目で見る80年史より

 同時期、鍛冶町の機械鍛冶屋がはじまりとされる機械工業は次第に近代化の道をたどり、山形市の五百川鉄工所は秦逸三が共同設立者となった米沢の帝国人絹の技術と結びつき「人絹製造機」を手がけ、後に「絹・人絹織機」の生産に乗り出すようになりました。このように大正期から昭和初期にかけての機械工業は製糸業の繁栄を背景に、織機や農機具を中心に展開されました。

年表

1871( 明治4 )年 明治政府が廃藩置県を行う
1872( 明治5 )年 山形郵便所開設
1875( 明治8 )年 伊藤嘉平治、足踏式旋盤をつくる
1876( 明治9 )年 山形、鶴岡、置賜県が合併し山形県となる
1878( 明治11 )年 国立銀行創設
1880( 明治13 )年 栗子トンネル開通
1889( 明治22 )年 大日本帝国憲法発布
1898( 明治31 )年 齋藤外市、力織機を発明
1899( 明治32 )年 奥羽南線福島-米沢間開通  鉄道の時代到来
1902( 明治35 )年 米沢輸出織物模範工場設立
1907( 明治40 )年 山形市に電話が開通
1909( 明治42 )年 長野県の片倉製糸が高畠に進出
1911( 明治44 )年 山形ガス会社創立
1913( 大正2 )年 秦逸三が日本で初めて人造絹糸の製造を確立
1914( 大正3 )年 第一次世界大戦勃発
1917( 大正6 )年 米沢大火
1919( 大正8 )年 県立山形工業試験場開場

用語解説

秦逸三(はた・いつぞう):日本で初めて人口絹糸(レーヨン)製造に成功した科学者。1912(明治45)年に米沢高等工業学校(現山形大学工学部)に講師として着任、人造絹糸(レーヨン)の研究を進め、1913(大正2)年に製造法を確立した。1915(大正4)年には自らを工場長として「東レザー株式会社分工場米沢人造絹糸製造所」を設立、学校を退職して人造絹糸の工業化に専念する。その後、分工場が独立し1918(大正7)年に帝国人造絹糸株式会社(現帝人株式会社)が設立されると取締役に就任、人造絹糸の工業化に成功して大学発のベンチャー企業の先駆けとなった。

伊藤嘉平治(いとう・かへいじ):1872(明治5)年に上京、現在の東芝につながる田中製作所の創業者であり発明家の田中久重の工場で機械製作を学び、1875(明治8)年に国内初の旋盤を考案した。鋳鉄と鍛鉄で造られ、動力はクランクを利用した足踏み式のものだった。

齋藤外市(さいとう・といち):長沼(現鶴岡市)出身の発明家。1898(明治31)年に発明した「齋外式力織機」は高性能であることに加え、価格も手頃だったことから全国的に普及した。また、当時成立したばかりの特許法を活用、力織機に関する特許を12種類取得し、織機に貼り付ける「齋外式」の商標販売を行なった手法は、ライセンスビジネスの先駆けとも言われる。1906(明治39)年に羽前輸出織物信用組合を設立、翌年純子製織機を発明した。その他発明は、飛行船、潜航艇、水雷、飛行機、十連発小銃など多岐におよぶ。一方で両羽実業新聞、鶴岡瓦斯会社の設立にも関与し、町(市)会議員としても尽力した。